第弐拾伍話「明日(あす)と未來を生きる」
「名雪すまないな付き合ってもらって」
「ううん、別に構わないよ。私走るの大好きだし」
体調も大分回復し、私は明けた週の初めから体を鍛える為走って登校する事にした。また、祐一が走るなら私も付き合うとの事で名雪も一緒に走って登校する事になった。
「それにしても女の子のお前に四kは少しきついだろ?」
「そんな事ないよ。それよりも祐一の方こそ私の鞄まで持って走るだなんて本当に大丈夫?」
「なぁに、体を鍛えるにはこれくらいが丁度良いんだ。何なら走り疲れたら負ぶっててやるか?」
「わっ、そんな恥ずかしい事頼めないよ〜」
「!?名雪、避けろっ!!」
「えっ!?」
他愛無い会話をしながら走っていた所、突如後ろから殺気を感じたので、私は咄嗟に名雪を抱えて回避した。
「朝から随分と仲が宜しいわねお二人さん…?」
「わっ、負ぶさるのも恥ずかしいけど、お姫様みたいに腕に抱えられるのも恥ずかしいよ〜。って、真琴ちゃん、どうしたの?」
「朝起きたら二人とも居ないから秋子さんにどうしたのか訊いてみたら、二人で先に学校に向かったって言われたから急いで追いかけて来たのよ…。名雪さん、私の兄様と二人きりで登校だなんて随分といい御身分ね……」
「…祐一、何だか真琴ちゃんの態度が今までと違うよ…」
「真琴、名雪を誘ったのは俺で…」
「問答無用!!兄様に抱えられているのが命取りになったわね!北斗七死騎兵斬!!」
「だから名雪は関係ないって!!」
私は急いで名雪を降ろし、臨戦体制に入る。
「ダイヤモンドダストー!!(C・V橋本晃一)」
私は地面に固まり氷となっていた雪を手で拾い、それを砕いて真琴に投げ付ける。
「その程度の技通用しないわよ!北斗剛掌波!!」
「ぐわっ!な、ならば、オーロラサンダーアタァァァックッ!!(C・V橋本晃一)」
今度は砕いた氷を勢い良く拳で投げ付ける。
「くっ、なかなかやるわねっ…!」
「止めだ!ペガサス流星拳!!(C・V古谷徹)」
「ならばこっちは、北斗百烈拳!!」
双方とも1秒間に10発程度(流石に1秒間に100発は無理であった)の拳を出し合う。
「真琴、なかなかやるな…。力はほぼ互角、この体勢は千日戦争の形…」
「兄様こそっ…。あっ、もうこんな場所…」
気が付いた時には私と真琴は学校側と公園側に分れる交差点に着いていた。
「どう、兄様、少しはいい運動になった?」
「ああ。やはり走るだけじゃ物足りないからな」
実は今の今までの真琴との戦いは事前に打ち合わせしていたものであった。ちなみに名雪を誘ったのは展開に味を付ける為の演出に過ぎない。
「じゃあ、私はバイトだからここで別れるわね」
「ああ。じゃあな」
「はぁ…、はぁ…、2人とも速過ぎるよ…」
真琴と別れて暫くし、ようやく名雪が追いついた。
「おっ、ようやく追いついたか」
「真琴ちゃんに狙われていた割には随分と清々しい顔だね……」
「さっ、学校に急ぐぞ」
「う〜っ、話をはぐらかさないでよ〜」
「まあ、半分遊んでいたのは確かだけどな」
「ふ〜ん…。それにしても真琴ちゃんと祐一のふざけあってる姿、本当に兄妹みたいだね…。ちょっと嫉妬しちゃうな……」
「と言っても、俺と名雪の関係と違って血は繋がっていないがな」
「ううん、血が繋がっていなくて兄妹に仲がいいのが羨ましいの…。あれっ……」
話をしながら歩いていると、ふと名雪が立ち止まった。
「どうした、名雪?」
「猫さんが…いるよ……」
私達の目の前を「ふなぁ〜」と鳴きながら猫が往来する。
「猫はこたつで丸くなる〜♪という歌があるが、冬に猫を外で見掛けるのは珍しいなぁ…」
「かわいいよぅ〜、だきしめたいよぅ〜…」
冬に外に出て来た猫に感心している私をよそに、名雪は野良猫に見取れている。
「そうか?何処にでも居そうな野良猫だぞ?」
「えっ、祐一おかしいよ!あんなにかわいいのに!!」
野良猫を必死で擁護する名雪。その名雪から発する気はいつもと異を成していた.
(…ま、大日本帝國軍が使えるゲームをプレイして性格が豹変するあゆよりは遥かにマシか…)
「祐一、わたしちょっといってくる!!」
「って、ちょっと待て、名雪って確か猫アレルギーじゃなかったか?」
「う〜、そうだけど…。でも…、でも…!」
「止めておけっ!また昔みたいに涙や鼻水が止まらなくなるぞ!!」
「ねこ〜、ねこ〜……」
(猫好きの猫アレルギーか…、う〜む、哀れ…。待てよ…?)
「名雪、猫が好きか?」
「うん、もちろんだよ!」
「本当に本当、心の奥底から好きか?」
「きくまでもないよ!!」
「猫アレルギーを直したいか?」
「とうぜんだよ!!!」
「そうか…なら…」
「えっ…!?祐一……」
私は名雪を自分の胸元に近づかせ、自分の唇を名雪の唇に合わせる。
「猫アレルギーが直す為のおまじないだ」
実際はおまじないというよりは実験である。舞は互いの唇を合わせる事により私に力を授けた。恐らくは粘膜間の接触により私に力を伝達させたのだろう。ならば同じ方法で名雪に私の力の一部を伝える事が出来るのではないか、そして猫アレルギーを完治させられるならば栞に感染しているウィルスを殲滅出来るのではないか?そう思い名雪に口付けした次第である。
「……」
「とりあえず直ったかどうか試してみるか?」
呆然と立ち尽くしている名雪に、とりあえず私は先程の猫を捕まえ目の前に差し出す。
「えっ!?あ、うん…。わぁい〜、ねこー、ねこ〜」
「どうだ?くしゃみとかするか?」
「あれっ?ぜんぜんしないよっ!…いつもねこをだくと顔があかくなってくしゃみとか涙がとまらなかったけど…わたし…わたし…、ようやくふつうにねこさんをだけるようになったよ!ありがとう、祐一っ」
「わっ、名雪」
嬉しさの余りか、名雪は抱き締めていた猫を引き離し私に抱き付く。私はその勢いに呑込まれ地面に倒れ込む。
「祐一〜、祐一〜」
「離れろっ、人に見られるぞ!!」
その後、忠告する私をよそに名雪は私を30分近く抱き締めていた。登校する多くの生徒の注目の的になり、学校に着いたのは遅刻ギリギリで守先生の檄をかったのは言うまでもない。
「お兄様、おはようございます!」
「わっ、栞ちゃん」
昼休み、いつものように佐祐理さん達と一緒に昼食をとろうと屋上に向かった所、その道中栞に声を掛けられた。
「栞ちゃん、どうしてここに…」
「残された限りない刻を祐一さんと一緒に過ごしたくて…。その為にはこの学校で同じ刻を過ごすのが一番だと思いまして…。ご迷惑でしょうか…?」
「その行動が栞ちゃんが精一杯生きようと思って考えた行動なら俺は何も言わない」
「ありがとうございます…」
「だけど、その『お兄様』という呼び方はやめてくれないか…。どうも気恥ずかしいものがあるんだけど…」
「言いましたよね?祐一さんを兄のように慕いますと」
「だったら他に『お兄ちゃん』とか『兄さん』とか別の呼び方があるだろ?」
「いえ、やはり祐一さんは私にとって敬愛できる方ですから、呼び方にもそれなりの敬意表現を表したかったので…」
「う〜ん、敬意を表すのは構わないけど…」
「あら?他の人を敬意表現で呼んで、自分が呼ばれるのは嫌だという事はないわよね、…兄くん…?」
「か、香里さん…」
「ほらっ、私の事はそうやって『さん』付けで呼ぶじゃない。だったら、逆に私の妹が祐一君の事を親しく呼んだって構わないんじゃない?」
「た、確かに…。あれっ…、それよりも香里さんって栞ちゃんのお姉さんだったのか?」
「ええ、そうよ」
「そうだったのか…。ま、薄々気付いてはいたがな…。それはそれでいいとして、さっきの『兄くん』って一体…。そこだけトーンが低かった気がするんだけど…」
「細かい事を気にしたら負けよ」
そう言われても気になるのは気になるのだが、問い詰めた所で真意は聞き出せそうにないのでそれ以上の詮索は断念する事にした。
「あははーっ、今日は随分と賑やかですね〜」
その後成り行きで美坂姉妹を交えた計5人での盛大な昼食会となった。
「はいっ、お兄様、あ〜ん」
「おっ、栞ちゃんサンキュー。ところでこれは栞ちゃんのお手製?」
「ええ。土日の連休に姉に作り方を学んで見様見真似で作ってみたのですが、お味は如何でしょうか?」
「うん、美味しいよ。佐祐理さんのには流石に見劣りするけど、そんじょそこらのコンビニ弁当よりは遥かに出来が良くて美味しいよ」
「そういって頂けると嬉しいです。いつかは佐祐理先輩に追いつけるよう頑張ります!」
「…フフッ、兄くん命拾いしたね…。もし、不味い何て言ったら今頃このフランス製のギロチンの餌食に…」
「えっ、香里さん…、今何か言いました?」
「何も言ってないわよ。気のせいじゃない?」
「そ、そうかな…」
香里が何か呟いた気がしたが台詞が恐ろしかったので、それ以上は追求しない事にした。
「…負けない…。次は私も作って来る…」
「あははーっ、栞さん、どうやら舞を本気にさせたみたいですねー」
「そうですか。では舞先輩、明日お手合わせ願いましょう。祐一さんにより美味しいと言わせた方の勝ちです」
「望む所…」
何やら思いがけない展開になって来たが、食費が浮きそうで何よりである。
「ククッ…婦女子4人に囲まれて酒池肉林の宴か…」
突如その時、屋上の方から不気味な声が聞こえてきた。
「この声…まさかっ…!!」
「香里の弁当に有り付く為に、私は帰って来た!!」
屋上に通じるドアが鬨の声と共に開かれ、潤が私に向かって突進して来た。
「クッ、人間核弾頭とは…、やるな潤!」
「全く…、退院したばっかりだっていうのに…。ま、それだけ元気なら完治したみたいね…」
「で、香里、俺に作ってきた弁当は?」
「ごめん、忘れて来た…。というのは冗談で、ここにあるわよ」
「脅かすなよ…。という訳でいただきま〜す。おっ、これは…?美味い、美味すぎるぅぅぅ〜〜」
「ちょっと、潤君、何も泣く事ないじゃないのよ……」
と、こんな感じで新たに潤を交え、盛大な昼食会は休み時間が直前まで続けられた。
その間垣間見られた栞の笑顔。この笑顔は後数日しか見られないのだろうか…。いや、そうはさせない、必ず私が救ってみせる―。
「お母さん、お母さん。猫飼ってもいい〜?」
「駄目よ、飼ったらアレルギーが酷くなるでしょう?」
「ううん、もう治ったよ。だから飼ってもいい?」
「あら、治ったのね。それならば了承」
「ありがとうお母さん」
下から名雪と秋子さんの他愛ない喧騒が聞こえてくる。この上なく嬉しそうな名雪の声を聞き、私は栞の身体を治す事により一層の決意を固める。
「何か良い事でもあったの、兄様?」
蒲団に横たわっていると部屋に真琴が入って来た。
「真琴か。いや、名雪の猫アレルギーが治って良かったなぁって」
「ふ〜ん。名雪さんって猫アレルギーだったんだ。で、それを兄様が治したって訳?」
「何故俺が治したと思うんだ?」
「『讀』の蝦夷の力を使えば会話から大体の感情は把握出来るのよ」
「成程な」
「それで、次は他の誰かを治そうっていうの?」
「そこまで読み取れるのか…。ああ、知り合いが不治のウィルスに侵されていて余命数日なんだ。俺が受継いだ力なら治す事が出来るかもしれないが、自信がなかった。それで名雪で試してみたんだが、成功したからこれで治す事が出来るなと思っていた所だ」
「…兄様、これだけは言っておくわ。兄様の力は人の生きようとする想いに働きかけ、傷を治したりアレルギーを完治させたりするもの。だけど、ウィルスも生命体であるという事を忘れてはいけないわ」
「何が言いたいんだ…?」
「ウィルスもまた生きようと思っているという事よ。しかも構造が単純なだけにその生きるという想いは人以上に純粋で本能的よ。つまり、ウィルスを患っている人の生きようという想いがウィルス以上じゃない限り意味がないって事。ウィルスより想いが低い状態でその力を注いでも、徒にウィルスを刺激するだけよ」
「そ、そんな…」
その話を聞き、私は愕然とした。栞の生きたいという想い、それは栞の身体を侵しているウィルスに勝っているか?栞の身体を侵しているウィルスはMRSAの進化系。進化までして生き延びようとしたのだからその想いは尋常ではない。対する栞はどうか?栞は言っていた。残された限りない刻を私と過ごしたいと。その覚悟はしっかりと生きようとする確固たる意志が表れている反面、死を覚悟した意志から滲み出ている。つまり、栞は…、
(つまり…、つまり…)
答えは分かっていた。しかし私はそれを認めたくなかった。死を覚悟し生きようとする想い、それは死を考えずひたすら生きようとする想いには敵わない…。
(結局私が何かをした所で全て徒労に終わるだけなのか…。嫌だ、もう繰り返したくない…。目の前の大切な人が失われるのを何も出来ずにただ見守る事しか出来ないのは……)
「お兄様、お兄様。ぼおーっとしてどうかしたのですか?私のお弁当そんなに美味しくなかったのですか…?」
「栞ちゃん…。あ、い、いや美味しかったよ。ただ、ちょっと考え事をしていて……」
昨日の夜から悩みに悩んでいたが考えはまとまらなかった。このまま終わらせたくはない。だけど下手に自分が手を貸した所で栞の症状を悪化させるだけだ。でも、黙って手を加えずにいるのも堪え難い…。そんな事で、翌日の昼食会もその事で頭が一杯で集中力が散漫になっていた。
「あははーっ、祐一さん駄目ですよー。審査員なんですから、気を逸らしていては」
「祐一。私のはどうだった?」
「う〜ん。舞のも栞ちゃんのもどちらもそれなりに美味しくて甲乙付け難いな…」
「そうか…。次は負けない…」
「私も次は舞先輩を打ち負かして見せますよ」
「だけどただ一つ言えるのはいつもの佐祐理さんの弁当の方が圧倒的に美味しいって事だな……」
「…舞先輩、どうやら当面の敵は貴方ではないようですね…」
「同じく…」
「あははーっ、呉越同舟ですかー。でも、佐祐理も可愛い弟に美味しいお弁当を食べさせる為に負ける訳にはいきませんよー」
率直な感想を述べただけだが、何時の間にか事態は佐祐理さんを交えた三つ巴の戦いに発展していった。
「あっ、お兄様一つお聞きしたい事があるのですがいいでしょうか?」
「ああ、別に構わないよ」
「昨日の潤さんの『私は帰って来た!!』と台詞、確か雪合戦の時もお兄様が私に言うように言った台詞だったと思いましたが、この台詞流行っているのですか?」
「ああ、あの台詞か。あの台詞は『機動戦士ガンダム0083』っていうOVAのある登場人物の名台詞なんだ」
「ガンダムですか…。名前だけは聞いた事がありますね」
「あははーっ、0083は作画レベル、ストーリー構成も良く、ガンダムシリーズの名作の一つですよ」
「今日で命が♪燃え尽きるとしても〜♪それでも人は〜明日を夢見るものか〜♪それがさ〜だめでも〜♪」
「何ですか、その歌は?」
「0083の後半のOPだ。個人的にはこの後半のOPの方が好きなんでな、特に今歌った歌詞の部分がな。この歌詞を聞くとどんなに絶望に陥ったとしても、明日を夢見て生き続けようと想うようになるんだ」
「今日で命が燃え尽きるとしても、それでも人は明日を夢見るもの…ですか……」
余命残り僅かな栞の前でこの歌を歌うのは不謹慎かもしれない。だが、私は栞に少しでも生きて欲しく敢えてこの歌を歌った。この歌の歌詞を聞き、少しでもいいから生きる事を想って欲しい、それが私の微かな希望である。
「…祐一さん…。放課後少し私にお付き合い願えないでしょうか…?」
「ああ、無論構わないよ」
「ありがとうございます…。ちょっと話したい事がありますので……」
放課後、私は栞に連れられ公園のあの噴水がある場所に案内された。
「ここに来たかったのか。で、話というのは…」
「祐一さん…。私祐一さんと一つになりたい……」
「えっ!?」
一つになりたい―。そう言い終えると栞は私に抱き付いて来る。
「し、栞ちゃん、ちょっと…」
いきなり抱き付かれて動揺している私を尻目に、栞は私の手を自分の制服の中へと誘う。
「すみません…。祐一さんにはあゆさんがいるのは充分に理解しています…。だからこそ、祐一さんを『お兄様』と呼ぶ事でその気持ちを押さえていたのですが…。でも、自分の中にある祐一さんに対する想いをどうしてもその段階で止めておく事が出来なくて…。ご迷惑でしょうか?」
「迷惑とかそんなんじゃなくて……」
「あの歌、祐一さんが私に生きて欲しくって歌ったのですね…?」
「…ああ…」
「私、そこま私の身体を気遣って下さる祐一さんが愛しくって愛しくってたまりません…。祐一さんの恋人になり、そして結婚して子供を産む…、それは決して敵わない夢だけど、来る筈の無い明日を夢見る事が許されるなら、私、その夢を一瞬でもいいから見たいです…」
直に伝わってくる栞の胸の柔らかさに私の本能は刺激される、理性を吹き飛ばせばそのまま栞を押し倒す位に…。でも、仮に今栞と交わったりしたら…。それは正しく今日で栞の命が燃え尽きる事を意味する。今の栞の体力では堪えられる筈がない、仮に交わったとしたら、その絶頂を迎えた時に恐らく栞はそのまま……。
「諦めるな、栞!私は、私はもう……」
「…!?…祐一さん、ようやく私の事を『栞』と呼んでくれましたね…」
栞に言われて気が付いた。気持ちの何処かに女性と親しくなりたくないという気持ちがあった。だからこそ私は栞の事を今まで「ちゃん」付けで呼んでいたのだが…。
「そして自分の事を『私』と…。今までの祐一さんの『俺』という呼称には何処か虚勢を張った所がありました…。でも、今の『私』には祐一さんの心の優しさがこれでもかという位に表れています…。昔女性との間でとても悲しい事があったのですね…。だから女性を近づけさせまいと敢えて虚勢を……」
「…ああ、その通りだよ栞…。覚えてはいない…、だけど心の中から声が聞こえて来る、『同じ過ちを繰り返すな…、もう女性がを目の前で失うのは…』と…」
「思い出せない程深い悲しみを体験したのですね…。すみません…、私また祐一さんを悲しい目に遭わせてしまうのですね…」
「栞!生きる事に背を向けるな!!死を悟りそれを覚悟するのも悪くはない…。だけど栞はまだ15年しか生きていないんだ…。だから今は生きる事を断念せずに、奇蹟を信じて必死で生きるんだ…!」
「祐一さん、起きないから奇蹟って言うのですよ…、だから……」
「違うぞ…違うぞ栞…。元寇然り、日本海海戦然り、戦後の復興然り…。この国は今まで何度も奇蹟を起こして来た…」
「祐一さん……」
「だけど栞!それらの奇蹟は人々が必死で生きようと想いに想った結果なんだ。圧倒的な力を誇り日本に侵攻して来た元、神風が吹いて撃退できたと伝えられている。でもそれは侵攻して来る元軍を上陸させまいと必死で攻防を繰り返し、暴風雨の季節まで防ぎ続けたからだ。『本日晴朗ナレドモ波高シ―』東郷平八郎率いる旗艦三笠を中心とした連合艦隊が、露西亜のバルチック艦隊と雌雄を決した日本海海戦。勝利を掴む最大の要因であったT字戦法は先の黄海海戦で既に敗れていた。だが、ここで引き下がったら祖国が踏み躙られる…、『皇國ノ荒廃此ノ一戰ニ有リ―』その想いが一度敗れた戦法を見事勝利の戦法へと導いたんだ。そして、戦後の復興。本土は米国の爆撃により焦土と化し、国敗れて山河ありといっても過言ではない程荒れ果てた。だけど人々はその深い絶望の中にも明日を夢見る事を忘れずに必死に生きた。その結果が日本を戦後僅か20〜30年で世界第2位の経済大国へと発展させた…。…いいかい栞、起きないから奇蹟と言うんじゃなく、起きるから奇蹟と言うのでもない…。起こすから奇蹟って言うんだ…!奇蹟は明日を夢見る事を忘れず必死に生きている人間に神様が与えるご褒美なんだ……」
「…祐一さん、祐一さんっ…。私本当はもっと生きたいです…。生きて生きてそして……」
「そうだ、それでいいんだ…。だから栞…」
「祐一さん…!?」
泣きじゃくる栞を優しく抱き締め、私は口伝いに栞に力を注ぐ。
「栞…。これは明日を夢見る決心をした私からのせめてのご褒美だ…。そして最後に1つだけ言っておく…。最初は明日を夢見つづけるだけでいい、だけど明日を生きれる保証が得られたなら、次は10年後、20年後の未来を夢見て生き続けるんだ…。明日を夢見る事は悪い事じゃない。でも明日の保証が得られたにも関わらずその先の未来を夢見つづける事をせず、いつまでも明日だけを見続ける事に固執した結果がこの不況だ…。だから栞、明日を夢見、そして更なる未来を夢見て生き続けてくれ……」
「最後まで本当に、本当にありがとうございます…。今の私にとっての明日は症状を完治させる事です…。そして、完治させて明日を生きれる保証が出来た時には…、祐一さんのような素敵な男性と……」
「栞さん、今日は来ませんね…。もしかして症状が悪化して…」
「佐祐理さん、大丈夫ですよ。栞は症状を完治させていつか必ずここに帰って来ますよ、舞や佐祐理さんと雌雄を決する為に…」
「今度は必ず勝つ…」
「ええ、そうですね、その時までに佐祐理ももっと腕を磨かなくては…」
「佐祐理が腕を上げると私の立場がなくなる…」
「あははーっ、それもそうね舞」
「ははっ…これからは昼休みがより楽しくなるな…」
そう―、栞は必ず戻って来る…。明日を生きて、そして未来を生きる為に―。
…第弐拾伍話完
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